空ノページ

ライトノベルを中心に活動中の作家、空埜一樹のブログです

曖昧ゲームコラム4:MOTHER 2

MOTHER 2

発売日時:1994年8月27日
発売元:任天堂
対応機種:スーパーファミコン

もしも突然見知らぬ男から銃を突きつけられ、
「お前が今までやってきた中で忘れられないゲームはなんだ! 答えろ! 答えなければ殺す!」
と脅されたとしよう。
ぼくは迷いなくスティーブン・セガール並の蹴りを繰り出し銃を弾き飛ばした後、相手の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけた後でこう返すだろう。
「よく聞け、まずはMOTHER2だ」
と。

あちこちから「だからなんだ」と声が聞こえてきそうだが、つまりはそれくらい好きなゲームだ。
SFCにおいてRPGの名作は数あれど、ぼくの中でMOTHER2ほど特別なソフトはない。
誰でも長いゲーム人生において幾つか「一度クリアしたのにまたやってしまうゲーム」が存在していることだろう。
ぼくにとってMOTHER2はその対象だ。
初めてプレイしてかれこれ10回以上はクリアしている。
なんていうか一定周期で「あ、きたな」と思う時がある。
来たなというのは他でもない「MOTHER2をやりたい周期が来たな」だ。
RPGをやりたいの? へー、これ」
と気軽な調子で別のゲームを貸されたら、ぼくは間違いなくサイコキャラメルを奥歯で噛み締めながら手をかざしPK KIAIΩで相手を粉々にするだろう。
ぼくがやりたいのはRPGではない。MOTHER2なのだ。
既にストーリーは完全に把握しているし、どこに何のアイテムがあるのか、どうすれば敵を倒せるのか、なんという街に誰というキャラがいるのかすら覚えきっている。
もうラスボスからすれば「くそっ、何回繰り返してもあいつにやられてしまう!」と恐ろしいループ状態に陥っていることだろう。そしてその地獄はこれからもきっと続く。
しかしこうなると単純に面白いという言葉だけでは済ませられないような気がする。
ある種の中毒性とも言える要素が、このソフトにはふんだんに盛り込まれているのではないだろうか。
MOTHER2のストーリーは主人公の住む街に隕石が落下したところから始まる。
実はその隕石は宇宙を支配せんとする巨悪「ギーグ」の卵であり、選ばれた子供の一人である主人公はその復活を止めるために旅立つのだ。
まず注目したいのは、世界観である。
初プレイ当時、ぼくにとってRPGと言えば剣と魔法が当たり前だった。
中世ヨーロッパ風の世界を鎧姿の主人公達が冒険していく。
これは最早、時代劇に侍が出てきて悪漢を倒すのと同じくらい覆しようのないものであった。
しかしそこにきてMOTHER2はハナから違っていた。
舞台は現代(もしくは近未来)のアメリカ。
主人公は何処にでもいるような野球帽が似合う男の子。
武器はバット。
防具は無し。
魔法の代わりにPK(超能力)。
何処をどうとってもぼくが知るRPGとは似ても似つかない。まるで独自の路線だった。
おまけに回復アイテムですら、薬草やポーションではなく、ハンバーガーやサンドイッチという現実から地続きのものだ。
受けた衝撃は計り知れなかった。
「こんなことやっていいんだ!」と無意識の内に己の中にあった固定観念が砕け散った瞬間である。
同時にMOTHER2という特殊なゲーム世界にどっぷりとはまってしまった。
しかしここまでリアルに寄せると一つの問題が浮上する。
ドラクエなどでは「敵を倒す」ということをあまり疑問に思ってはいなかったが、よくよく考えればあれは立派な殺害行為だ。
モンスターといえど一個の命である。それを敵対してくるから仕方ないとは言え剣でぶっ刺し、魔法で焼き殺し、ハンマーで叩き潰しているわけである。
魔物にも夢があったかもしれない。家族がいたかもしれない。ずっと片思いをしている相手がいて「オレ、勇者との戦いが終わったら告白するんだ」と川べりで語り合っていたかもしれない……これ以上言うと切なくなってくるのでやめておく。
ただ、ぼくは別にドラクエ(や他のファンタジーRPG)を倫理的な問題で裁こうとしているわけでは全くない。
寧ろこの手のゲームにそういう現実世界的な問題をもってきてしたり顔をすることは、個人的にもっとも嫌う行いだ。
しかしMOTHER2のように現代を舞台にすると、どうしてだか、そういった感覚が浮上してくるのは否めない。
困ったものだが、その辺のことをMOTHER2は見事にクリアしている。
主人公達にはカラスや犬やロボットや果てはギーグによって悪意を増大させられた、同じ人間でさえ襲いかかってくる。
ただ、その全てを退けた時、戦闘画面のウインドウには決して「○○を倒した!」とは出ない。
代わりに「○○は大人しくなった」と出るのだ。
そう、主人公達との戦いを通して敵はやられるのではなく、理性を取り戻すのである。つまりこれは救いなのだ。
なんと素晴らしい配慮だろうか。子供の頃は気づかなかったが今やると、MOTHER2にはそういった細かな気遣いが随所にあるのを知ることが出来る。そこにまた感動するのだ。
次いでストーリー進行のテンポである。
最近のゲームはハードの機能が上がって、実写と見紛うような美麗なムービーが観れるようになった。
そのこと自体はぼくも大歓迎だし、美しいグラフィックに感動して見惚れることも多々ある。
だが同時に、そのせいかプレイするのにやや時間やロードの「待ち」が必要となり、少し気軽にやれなくなってしまったと思うこともたまにある。
ゲームをやる時、やるぞっ! と気合を入れて電源スイッチを押すこともあったりするのだ。
その点、MOTHER2は派手なムービーやイベントシーンがない代わりに気軽に始められるし、ほとんど引っかかるところもなく進んでしまう上、小ネタや会話が面白いので、一度やったらやめどきが分からなくなってしまい、自然に最後までやれてしまう。
それ以外にも、わずかでもプレイに抵抗を覚えてしまうようなある種のストレスとも呼べるものを、徹底的に排除している感さえあった。
これはMOTHER2だけではなく、他の中毒性のあるゲーム全てに言えることではないかと思う。
気軽さが継続に繋がることもあるのだ。
特に年齢を重ねていくごとに、それを実感することが多くなってきた。
他にも色々とあるが全部を書いていると記事が延々に続いて終わりが見えないのでこの辺りでやめておくが、MOTHER2を繰り返して何度もプレイしてしまうのは、単純な面白さ以外に加えられた独自性のスパイスがふんだんにまぶしかけられているからだと思う。
また今でこそMOTHER2といえばゲーム好きの間ではそれこそゴジラでいうキングギドラモスラくらいに有名な作品だが(怪獣に例えんな分かるか、という人はまあ、主役に匹敵するほどの存在感だと思って自由に他のキャラを当てはめて下さい)ぼくが初プレイした時は少なくとも周囲で知っている人はあまりいなかった。
そこがまたゲーム好きのいやらしい部分を刺激したのである。
誰も知らないソフトを自分だけが知っている、という気持ちは、次第に
「君達、メジャーな作品も悪くはないが少しは自分の目と耳を駆使して良作を探り当てたらどうだね、ふふん? ふふふふふん?」
という目の前にいたらジャイアン並みのパンチ力で顔面に拳を繰り出したいようなガキを誕生させたのである。
とは言えMOTHER2は楽しさや面白さとはまた別の強烈な体験をぼくの心に刻み込んだのは確かだ。
今はまたバーチャルコンソールで配信されて気軽にやるれので、「その時」が来ればまたぼくはプレイするんだろう。
全てを知り尽くしてもなお面白い、そんなゲームも世の中には存在する。

終わり

余談:マザー2におけるラスボス「ギーグ」の倒し方は、今までやったRPGの中でも屈指の驚きと感動があると思う。正にこのゲームだからこその演出は本気で一度は見ておくことをお勧めするので、未プレイの方は是非やって見て下さい。

次回:ロックマン3 ワイリーの最期⁉︎