空ノページ

ライトノベルを中心に活動中の作家、空埜一樹のブログです

曖昧ゲームコラム 10:俺の料理

俺の料理

発売日時:1999年9月9日
発売元:ソニー・コンピュータエンタテインメント
対応機種:プレイステーション

 

現在発売されているゲームは星の数ほど存在するが、作品によってそれぞれジャンル分けされている。
RPG、アクション、シューティング、アドベンチャー、スポーツ、パズル、リズム、シミュレーション……などなど、数え上げればキリがない。
ただ、それだけの類型がなされているにも関わらず、そのどれにも属さないものもあった。
ゲームショップなどで主に「その他」のコーナーに入れられる作品だ。
扱う側が「これはどういうゲームなんだろう」と悩んだ結果、判断あぐねてそうせざるを得なかったのである。
ファミコン時代、ちょうどテレビゲームが一般に広まり始めた頃に一番多かった気がする。
だが時代が移り、次世代機が中心となると、その数も少しずつ現象していく。
ただ、その中において尚、独自の道を突っ走り、突っ走り続けて、崖スレスレを高度なテクニックでどうにか走り抜けたツワモノもいた。

「俺の料理」というゲームがその一つだ。
タイトルを初めて観た人は、きっと頭の中が疑問符でいっぱいになっていることだと思うので、ちゃんと説明する。
料理を作るゲームである。
「だからなに????」
と、やはり聞いた人は首を傾げ、なんならちょっとイライラし始めているかもしれない。
よって更に詳しく解説しよう。
コントローラーを駆使して、ラーメンや、ハンバーグや、天ぷらや、ソフトクリームを作るゲームなんである。
そろそろ拳が飛んできそうだ。ちゃんと言います。

いわゆるグルメ漫画などでは、しばしば「料理対決」といったものが行われる。
美味しんぼでの「究極のメニューVS至高のメニュー」然り、ミスター味っ子での「味将軍グループVS味吉陽一」然り、OH!MYコンブにおける「闇の味帝国編」然りーー。
主人公が実力者の料理人と激しく火花を散らしながら、どちらの腕が優れているか競い合うわけである。
俺の料理は、その展開をそのままゲームに持ってきたようなものだ。
主人公は料理人である。
彼は、様々な料理屋を渡り歩きながら、そこで凄まじい腕を持つライバルと激闘を繰り広げるのだ。
勝利の条件はただ一つ、相手よりも多くの客を料理で満足させること。
そして、その料理をプレイヤー自身が、様々な手順を経て作り上げるのである。
制限時間内で、材料を切り、煮込み、焼き、ひっくり返し、器に入れる。
全てを素早く、それでいて丁寧にこなさなければ、敵に勝つことはできない。
君は果たして料理人の頂点に立てるのかーー!

と、壮大なように書いているが、実際は普通にゲームでごはんを作っているだけである。
魔王を倒すこともなければ、エイリアンを撃つわけでも無く、難解な事件の謎を解いたり、悪霊を退治するわけでもない。
おまけにヒロインはちびまる子ちゃんのお母さんを彷彿とさせるパンチパーマのおばちゃんのみである。
あまりにも地味だ。
でも、これが、実に面白かった。
妙な中毒性があったのだ。
ぼくがなぜこの「俺の料理」を購入したのかは、未だ持ってまるで覚えていない。
当時、食べるのは好きだが料理なんてろくにやったこともなく、別にやりたいとも思わなかったぼくが、どういった経緯でこのソフトに自腹を切ったのか、深い謎に満ちている。
すこぶるどうでもいいので解き明かすつもりもないが、ともあれ、ぼくは何気無くやり始めたこのゲームに見事にハマった。
寝ても覚めても料理対決、学校から帰ればラーメンを作り、ご飯を食べては天ぷらを揚げ、風呂に入ればハンバーグを焼いた。
文章だけ読めば天才少年料理人のようだが、実際はコントローラーを握って背中を丸めているだけだ。
中学だか高校だかの若者が、ひたすらにアイスクリームや生ビールをうまく注ごうと心血を注いでいる姿は、ある種、異様なものだっただろう。
それでも、そんなに些細なことなんて気にならないくらい、楽しく遊んでいた。

ぼくの癖というか、他の人にもあるとは思うが、面白いゲームを見つけると、似たジャンルがやりたくなる傾向にある。
だが、俺の料理に似たジャンルなんてない。
俺の料理は俺の料理でしかなく、同じ作品は二つとなかった。
唯一無二の「お料理作りゲー」とでも言おうか。
あれから10年以上経ったが、続編はおろか、リメイクでする出ていない。
その後、俺の料理に続こうというメーカーも存在していなかった。
それほど異色のものだったのだろう。
あるいは、それほど数が出なかったのかもしれない。
ただ、例えそうだったとしても、ぼくの心には強烈なまでにその個性が刻み込まれた。
数字よりも記憶に残る作品を作るのが大事、なんてお題目は、綺麗事でしかないというひともいる。
それでも、やっぱり、思い出の中で薄れない魅力を持つ作品は大切だ。
俺の料理は、そういうことを教えてくれた作品だった。

余談だがこのゲームをやり込みまくって、自分が凄腕の料理人になったような気分になった為、得意げに家の台所に立ったことがある。
が、まったくといっていいほどに、ろくなものを作れやしなかった。
現実にもコントローラーがあったらいいのに、とバーチャル世代のようなことを思った次第である。

さて、と言うわけでこの「曖昧ゲームコラム」は今回をもって、終了になる。
よりによって最後が俺の料理って、と思う人もいるかもしれないが(いや間違いなく名作ではあるんだけど)一応の目処をつけたというだけで、また気が向いたから書くかもしれない。
ただ、取り敢えず、しばらくは別のものを書こうと思っている。
それが小説なのかあるいはコラムなのかは気分次第ではあるが、また気が向いたら載せるので、読んで頂けると幸い。
それではまた会う日まで。

 

終わり 

 

曖昧ゲームコラム9:ポポロクロイス物語

ポポロクロイス物語

発売日時:1996年7月12日
発売元:ソニー・コンピュータ・エンタテイメント
対応機種:プレイステーション

思えばぼくの青春時代は、そのままテレビゲームの進化の軌跡と呼べるのかもしれない。
8bitのファミコンから始まり、スーパーファミコンPCエンジンネオジオから3DOなど、実に様々なハード(機種)が各メーカーから発売された。
どれもが独自性のある機能を持ち、それをフルに活かしたソフトを出していたものだ。
しかしそんな中で、ある時、テレビゲームの転期とも呼べる瞬間が訪れた。
SONYからプレイステーションが、セガからセガサターンが発売されたのだ。
当時、プレイステーション(以下プレステ)とセガサターン(以下サターン)、それに任天堂から出たニンテンドー64(以下ロクヨン)という三つの新時代を象徴するようなハード、「次世代機」が三つ巴になってバトルを繰り広げていた。
人々はプレステ派、サターン派、ロクヨン派という陣営に分かれ、一度相手が敵ハードを愛するものだと分かると、苛烈なストリートファイトが繰り広げられ、敗者は首から「私は敗北ハード主義者です」と書かれた木札を下げられた。(フィクションです)
その時、中学生だったぼくは、何かとてつもない時代が訪れようとしていることを、ひしひしと感じていたのである。

そして来たる誕生日、ぼくは両親に頼んで、次世代機の一つを手に入れることに成功した。
選んだのは、プレイステーションだ。
大きな理由としては、話題の大作「ファイナルファンタジーⅦ」がプレステで出ると聞いていたからである。
ただし、FFⅦはその時、まだ発売していなかった。
なので、ハードと一緒に選ぶソフトは別のものにしなければならなかった。
前にも書いたが、新ハードと共に初めに購入するソフトは非常に重要である。
これを「ファースト・チョイス・ニュー・ゲーム・ソフト」、略してFCNGSと呼ぼうと思ったが、無茶苦茶ゴロが悪くて覚えづらいこと火の如しなので、やめておくことにする。
ともあれ幾つか出ていたソフトの中で、ぼくは初め「アークザラッド」というシュミレーションRPGを買ってもらおうとしていた。
が、目論見が外れてアークはしばらく後の発売だったと判明し、急遽、他のものを選ばなくてはならなくなる。
あまり残されてはいない時間の中で、焦り気味にショーケースの中を覗いていたぼくは、あるものを発見した。
それは、他のソフトのパッケージとは違い、まるで絵本のような優しいイラストの描かれたものだ。
中学生ともなれば格好つけたくなる年頃、額の邪眼が疼いたり、腕に包帯を巻いて突然苦しんだり、筆箱に小さいヒロインが隠れている設定で話しかけたりするもの。
多分に漏れずぼくもあらゆる物事を斜に構えて見る「第一次この世でぼくだけが世界の虚しさを知っている症候群」になっており、本来であれば、そういったゲームは子供のやるものだと手に取らなかったはずだった。
それなのになぜか強烈に惹かれるものを感じ、ほとんど抵抗なくそのソフトを選んでいた。
長くなったが、それが「ポポロクロイス物語」だ。

ポポロクロイス物語は、元々、漫画として連載されていたが、後にプレステ用のゲームとしても製作された。
ストーリーは、主人公であるピエトロ王子がガミガミ魔王を倒しに旅に出るところから始まる。
いわゆるオーソドックスな「勇者魔王もの」のフォーマットに則っているわけだが、ポポロはそこからが違う。
ガミガミ魔王退治なんて、この大きな物語のほんの一部に過ぎない。
そこを皮切りに、次々と思っても見ない展開が待ち受け、ピエトロは多くの厳しい試練へと立ち向かうことになるのだ。
そのほのぼのとした世界観とは裏腹にハードなシナリオと、厳しいテーマ。
それに錆びると動かなくなるロボット疑惑の白騎士(後に結婚して子供が生まれる所を見ると生き物だったのだろうか)や、可憐な魔女ナルシアなど、個性的なキャラクターと相まって、ぼくは見事にどハマりした。
ぼくの誕生日は8月の終わり頃なのだが、残された夏休みの時間を全てポポロの攻略に注いだほどである。

また、ポポロクロイスは、ストーリーや演出だけが優れているわけではない。
フィールドからそのまま戦闘へと移る「シームレスバトル」も斬新だったが、随所に美麗なアニメが挿入されるのもまた魅力的だった。
そう。ぼくはプレステをやって衝撃を受けたのである。
ゲーム内のキャラが声を発するのもそうだが、アニメーションが流れるなんて、まさに新時代の幕開けとしか思えなかった。
10代くらいの人には分かりにくいかもしれないが、当時のプレイヤーにとってそれは、人類が月に行ったのと同じくらいの驚きに満ちていた。(はずである)

正直、スーファミですら完璧に近いと思っていただけに、プレステで更にその先へ行くのかと、ゲームの果てない可能性を見た瞬間である。

あの感動は、ポポロクロイスという優れた作品を、より忘れられないものへとしてくれた。
今となっては中々味わうことのできない、ワクワクとした日々の到来を感じさせてくれるソフトだった。

終わり

次回:俺の料理

曖昧ゲームコラム8:ファイナルファンタジーⅤ

ファイナルファンタジー

発売日時:1992年12月6日
発売元:スクウェア(現スクウェア・エニックス)
対応機種:スーパーファミコン

 

セーブする、という言葉は、主に何かを抑制する時に用いられることが多い。
だが、ことゲーム、特にRPGにおいては、データを記録するという意味をもつ。

最初期こそ、例えばドラクエでなら「ふっかつのじゅもん」というシステムがあった。
プレイヤーは王様から教えられた文字列を入力することで、前回までの冒険を引き継ぐ形でゲームを再開することが出来たのだ。
しかし「ふっかつのじゅもん」はあまりに並びが無造作であり、長いので、とても覚えきれるものではない。
そこでプレイヤーは文字をノートに書き写すわけだが、人間のやることだからミスもあった。
誤字や脱字のせいでゲーム側に受け付けてもらえず、数時間や下手すれば数十時間が泡となる惨たらしい瞬間を、ぼくは何度か見てきたものだ。
しかし時代が変わるにつれ、少しずつセーブの仕方も変わってくる。
ドラクエは教会で冒険の書をつけるだけで良くなったし、他のゲームの中には、はっきりとメニュー画面に「セーブ」という項目が出現するものもあった。それを押すだけで、現在のデータが正確に記録されるのである。

というわけで今回は、セーブ機能が当たり前につくようになってからしばらく経った頃のソフト、ファイナルファンタジーⅤの話だ。
ファイナルファンタジーは、ドラクエと並んで知られている超人気RPGである。
その程は、世に「ファイナルファンタジー派」と「ドラゴンクエスト派」という二つの相容れない派閥を作り上げてしまうほどだった。
ちなみにぼくはどちらも好きなので両陣営には属していない。言うなれば双方をさ迷いながら流れるように生きる、スナフキンのような立場である。

ちなみにドラゴンクエストを「ドラクエ」と呼ぶように、ファイナルファンタジーにも略し方がある。
一般的には「FF(エフエフ)」のようだが、ぼくが子供の頃、何故か周りの奴らは全員揃って「ファイファン」と言っていた。
でも、当時は当たり前のように使っていたが、ネットが発達するにつれ、それが極めて地方性の強いものであることが分かってくる。
大体の人が「FF」であり、それ以外に呼んだことはないというのだ。
あまつさえ「ファイファン〜?」と語尾を高くし、小馬鹿にするような態度を見せる奴まで出てくる始末である。
なんだか子供時代の青春さえ嘲られた気がして、腹立たしいことこの上なかった。(まあ、ぼくも今ではFFって言ってるのだけど。大人になると言うことは、周囲に色を合わせることでもあるのだ)

で、ファイナルファンタジーⅤはぼくが初めてプレイした『ファイファン』のシリーズである。
主人公は、ひょんなことから世界の理を司る石「クリスタル」をめぐる冒険に出ることとなる。
Ⅴのシステムとして斬新なものと言えば、まず「ジョブ」が上げられるだろう。
ジョブとは直訳すると「仕事」、つまりはキャラクターを色んな職業に転職させることが出来るのだ。
種類は騎士や魔道士、武道家に盗賊などオーソドックスなものから、侍や忍者にものまねし等の一風変わったものまで様々ある。
ただ、その中でも一番強いのは、各キャラが最初からついている「すっぴん」であるという話があった。
すっぴんは特別な能力などはないが、全ての武器を装備できる。
加えてFFⅤのジョブには「アビリティ」という項目があった。これはいわゆる職業固有のスキルのことを指すのだが、ある程度まで鍛えると、他に転職してもそれを付け替えることが可能なのだ。
例えば魔道士で魔法のアビリティを覚えた後で、騎士に転職すると、魔法を使える騎士が誕生すると言うわけである。
このアビリティを、全ての武器や防具を装備できるすっぴんにつけると、やりようによっては確かに無敵に近いものとなる。
ただしその為には、あらゆる職業をマスターしまくらなければならない。
もちろん並大抵のことではなく、多大な時間と労力を必要とすることだった。
しかし、ぼくは友達がそれをやり遂げたのを見て、猛烈に対抗心を焚きつけられることとなる。
それからしばらくの間、学校から帰るなりスーパーファミコンを立ち上げ、ひたすらにFFⅤでジョブを一つずつ極め続けることになった。
あの時の執念を別の方向に活かしていたら、今頃それなりに良い暮らしのできる立場にいたのかもしれない。が、今更言っても詮無いことだ。多分、人生を何回やり直してもぼくは同じことをする。理由は一つ。勉強はつまらなく、ゲームは楽しい。そういうことだ。
まあ、その楽しいを追求していった結果、今の明日ともしれない身の上があるわけだが、その辺に関しては盛大に目を逸らそう。
とにかくひたすらにプレイに没頭した結果、ぼくはついに全てのジョブをマスターランク(限界まで極めた証)にすることが出来た。
これで最強のすっぴんが誕生するわけである。
どうでもいいがあらゆる職業の中ですっぴん、つまりは無職が強いというのは何とも皮肉な話である。人間、やはり、失う物のない奴が最も恐れなく人生を送れるのかもしれない。
しかしその時のぼくはもちろんそんな汚れた考えを持っているわけもなく、ただ己の偉業に感動しつつ、セーブしてゲームを一旦終了した。

そして、問題は次の日に起こった。
いつものようにスーファミを起動し、昨日のデータを引き継ごうとした時のことだ。今日こそはすっぴんに厳選したアビリティをつけて楽しもう、そんなことを思っていた。
のに、無かった。
あれほど苦労したセーブデータが。
どこにも存在していなかったのだ。
今の若い人には分かり辛いかもしれないが、昔のゲームはソフト内に記録を保存していたので、物が当たったとか、指で動かしたとか、ちょっとしたことでセーブデータが消えることは割とあったのだ。
現実が信じられず、ぼくは何度もゲームを注視した。
だがやはり、そこには何も無い。
十数時間あまりが、泡沫のように消えた瞬間である。
その時のショックは計り知れなかった。
人間、本当に絶望した時は叫びすら上がらないというが、正にその通りだ。
ぼくは床に突っ伏し、ただ、ただ、その状態でじっとするばかりだった。
なぜ。
神はなぜこのような試練をお与えになられるのか。
別に何も信仰しているわけではなかったが、本当にそう思った。
何かも嫌になり、学校も楽しみにしていたアニメも漫画も全部どうでもよくなった。
もうどうにでもすればいい。
ぼくには何も残されてはいないのだ。
そんな、まるで財産や家族を全て奪われたかのような、超投げやりな気分になっていた。
しかし、希望というものはどこからやってくるか分からない。
その後、たまたま遊びにきていた友達が、奇跡を見せてくれた。
ぼくからセーブデータが消えたことを聞くと、彼は「ああ、ほんならこうしたらええねん」といきなりスーファミの電源スイッチを切った。
そして、ソフトを前後に軽く揺すった後、何度かスイッチを入れたり切ったりして、最後に再び起動したのである。
何やってんだこいつ、と死んだ魚のような目で見ていたぼくだったが、次の瞬間、仰天した。
セーブデータが復活していたのだ。
「な、なんで?! どういうこと?!」
と勢い込んで尋ねたぼくに、友達は笑顔で答えた。

「知らん」

未だに友達がどうやってあの強引なデータ復旧を成し遂げたのか謎でしかない。
セーブに翻弄されたRPG好きの、懐かしい人生の一コマであった。

 

終わり

次回:ポポロクロイス物語

曖昧ゲームコラム7:熱血高校ドッジボール部

熱血高校ドッジボール部

発売日時:1988年7月26日
発売元:テクノスジャパン
対応機種:ファミリーコンピュータ

 

以前の記事で、ゲームはコミュニケーションツールとしての側面があると書いた。
だけどそれは、必ずしもプラスだけを生み出すわけではない。
時に争いを生むことだってあるのだ。

熱血高校ドッジボール部は、「くにおくんシリーズ」と呼ばれるものの一つだ。
元々「熱血硬派くにおくん」というタイトルのアクションゲームが存在し、そこでは最強のツッパリ(もはや死語だが)であるくにおくんがライバル高校を相手に大暴れしていた。
そのくにおくんが、何故かよく分からないが級友と共にドッチボールを始め、よく分からないが世界へと飛び立ち、更に分からないことに外国チームと命をかけたルールで戦いを繰り広げることになるのが、「熱血高校ドッジボール部」というゲームの内容だ。
分からないものを分からないものと分からないもので挟み込んだ物凄いハンバーガーなわけだが、当時は少なくとも、くにおくんというシリーズでは当たり前のことだった。
当初はツッパリ最強伝説のはずだったくにおくんは、乱闘妨害なんでもアリの運動会を行なったり、ゴルフをしたり、はたまた江戸時代に飛んだりと、かなり自由度の高い世界を繰り広げていたのだ。
ドッジボールをすることくらい、ぼくらにとっては当たり前のことだった。
それにしてもサッカーやゴルフならともかく、ドッジボールという種目を選んでいる辺りに時代性を感じる。
10代〜20代の方には分からないかもしれないが、ぼくが小学生だった頃、とにかくドッジボールが流行していた。
何がきっかけだったのかは分からない。
ただ、コロコロコミックでは「ドッジ弾平」という漫画が大人気になり、他にもガンダム仮面ライダードッジボールで戦うゲームも存在していたほどだった。
ただ、言うまでもなく、ドッジボールはスポーツの一つである。
ボールを相手にぶつけ合うという少し危険な内容であるからこそ、顔面を狙うのは禁止、同じ相手ばかりを攻撃しない、などのルールは厳密に守られていた。
しかし、熱血高校ドッジボール部においてはそんなもの存在しない。
やるかやられるか、食うか食われるかのデッドヒート、互いに全身全霊をかけて殺すつもりでボールを投げて、最後まで試合場に立っていたものが勝利者なのだ。
何せ双方のチームの選手一人一人には「必殺シュート」なるものが用意されていた。
必ず殺すと書いて必殺である。
もはやこれはドッジボールではない……と書くと稲妻の名を持つあるゲームを彷彿とさせるが、正にその通りであった。
しかしこの殺伐とした世界観が、小学生男子のぼく達に火をつけた。
誰かがソフトを買ったのをきっかけに放課後、どこかの家に集まってひたすらに修羅の国が如きドッジボール対戦を繰り広げる日々が始まったのである。
「うらぁ、死ねぇッ!!」
「そんなワザ効くか! ぶっ殺せえええ!」
どう考えてもドッジールをやってる奴らが発するべきではない声が、当時、毎日のように響き渡っていた。
そうして飽きることもなくコントローラーを握っては死闘を展開していると、ぼくらはあることに気付き始める。
熱血高校ドッジボール部ではストーリーモードと対戦モードが用意されていた。
そして、前者では主人公の属する「熱血高校」しか使えないのだが、後者でのみ、敵、即ち外国チームを使うことが出来るのだ。
その中に、必殺シュートが物凄く強いチームがあった。
よく覚えていないのだが、ロシアだかドイツだかだったと思う。
とにかくそいつらを使えば、勝率が上がるのだ。
よってぼく達の中で、誰がいち早くその国を選ぶかという新たな戦いが幕を開けた。
とにかくゲームをスタートし、チームをセレクトする場面に移動したら、即座に行動を移す。
そうしなければ強い外国チームを選ばれてしまい、負けがほぼ確定してしまうので、必死だった。
今考えれば他のチームだってやりようによっては負けなかったと思うのだが、小学生男子の単純脳には「必殺技が強い奴が一番」という概念がこびりついていた。
ドラゴンボールにおいて味方に新キャラが出る度、ごっこ遊びで激しい役の取り合いが行われたものである。
大体、ゴクウ→トランクス→ベジータ→ゴクウ→ゴハン、みたいな移り変わりだった。
ともあれ、ゲームを開始する前に勝敗が決まるという圧倒的な緊張感の中、ぼくらは一進一退を繰り返し続けた。
しかしその中において、異常なまでにチームセレクトが上手い奴がいた。
仮に山口君としておこう。
山口君は、え、腕が機械になってんの? という常人離れしたコントローラーさばきで、いつも誰よりも早く一番強いチームをセレクトしていた。
大人であれば譲り合いの精神を持つが、そこは子ども、本当に遠慮なく、容赦無く、他の追随を許さぬほどに、山口君は一度もこちらに選択権を委ねなかった。
それが何度か続いた時のことだ。
さすがにぼくらの間でも「こいつまじでなんなんだ」というか空気が流れ始めていたが、ついに一人がキレた。
仮に田上君としておこう。
山口君がいつものように強いチームを選んだ瞬間、
「てめえ、そればっかり選んでんしゃねえぞえやあああああ!」
と後半ちょっと何言ってるかわからない感じで田上君が山口君に掴みかかった。
山口君は山口君で、
「だってこれが一番強いもん!!!」
と「せやな」としか返せない言葉をぶつけ、二人は取っ組み合いになった。
結局のところ、ぼくらが止めて事は済んだのだが、その日は喧嘩別れのようになって解散することになる。

ゲームは人と人を繋ぐ力を持つが、それによってマイナス的なことが起こることもあるのだ。
何事も冷静にならねばならないなぁ、としみじみ思い、ぼくらが一つ大人になった事件でもあった。

 

終わり

次回:ファイナルファンタジー

曖昧ゲームコラム6:ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁

ドラゴンクエスト天空の花嫁

発売日時:1992年9月27日
発売元:エニックス(現:スクウェアエニックス)
対応機種:スーパーファミコン

 

もしも突然見知らぬ男から銃を突きつけられ、
「お前が今までやってきた中で一番好きなドラクエはなんだ! 答えろ! 答えなければ殺す!」
と脅されたとしよう。
ぼくは迷いなくクリスチャン・ベール並のテクを繰り出し銃を逆に奪い、華麗にガン・カタで圧倒した後で、銃口を突きつけこう返すだろう。
「よく聞け、ドラゴンクエスト天空の花嫁だ」
と。

「またそれか」という声が聞こえて来そうな気もするが、つまりはそれほど好きなシリーズである。
ドラゴンクエストは言うまでもなく世界的にも超人気のPRGだが、今までに十本のシリーズが作成されている。
そのため、人によって好みが分かれるところなのだが、ぼくはⅤが一番だと思っている。
生まれて初めてやったドラクエがⅤだったというのも大きいが、それ以外でもこの作品はある大切なことを教えてくれた。
RPGでは、時にプレイヤーに対して選択肢を求めるイベントが起こることがある。
それは村人からの他愛ない質問であったり、もしくは仲間や敵から向けられるものであったりするが、大体の場合はその結果で大きく何かが変わるわけではない。
また、失敗したなと思っても取り返しのつくこともある。
そして、現実でも選択を迫られる瞬間というものはあって、人は嫌でも何かの答えを自ら手に取らなければならない。
だが、その場合、後戻りができることは少ない。
たとえそれが誤りであり、想定してたのとは全く違った展開が待ち受けていたとしても、無かったことには出来ないのだ。
それが人生である。
ただ、そんなものは歳をとってから分かることで、子どもの時分にはそれほど自覚することはないし、する必要もない。
ぼくだって取り返しのつかないような選択なんてものは、経験したことがなかった。
ドラクエⅤをやるまでは、だ。

以前「ドラクエで一番不幸な主人公は誰か?」という議題で話し合ったことがある。
他にやることなかったんかいと突っ込まれたらそうですが何か? とメガネをくいくいと指で押し上げる泰然自若なぼくだが、とにかくこれが割と揉めた。
個人的にⅣかⅤが際どいところだが、僅差でⅤだと思う。
何せドラクエⅤの主人公は、幼い頃に父親を目の前で殺され、以後10年間をその仇によって奴隷にされて過ごし、やっと解放されて結婚し子どもが生まれたと思ったら敵によって夫婦共々石像にされ、目覚めた時には子ども達は既に大きくなり奥さんは未だに石のままという運命を辿るのだ。
朝ドラの主人公もかくやとばかりの試練の連続である。
物語を盛り上がらせるには主人公へ常に波乱を与え続けることだ、とは以前読んだ物の本に書いてあったことだが、それにしても与え過ぎである。
ぼくだったら奴隷になった時点で何もかも嫌になって地面に生えてるタンポポの花の数だけ数えて生涯を終えると思う。
しかしその不幸にめげず、仲間達と共に巨悪へと立ち向かうからこそ、ドラクエⅤの主人公は逞しく、そして格好良く思えるのである。

で、ここにきて注目したいのが上記の文章内にあった「主人公が結婚する」という部分だ。
そう、ドラクエⅤにおいて主人公はストーリーの途中、異性と婚姻関係を結ぶことになる。
これは当時のRPGでも無かった展開で、非常に驚いたことを覚えている。
しかも主人公には結婚候補が二人いて、どちらかをプレイヤーが選ばなければならないのだ。
更に言うと、一度選んでしまった以上、やり直すことはできない。
結婚してからラスボスを倒すまでは、ずっとその人と共に生きることになるわけである。
これには相当悩まされた。
何せ二人のお嫁さん候補は、どちらも魅力的な人物だからである。
一人目はビアンカ
主人公より歳が上で、幼い頃に出会い、一緒に幽霊城で冒険を繰り広げた仲である。
勝気だが明るく元気で前向きな、頼れるお姉さんキャラでもあった。
二人目はフローラ。
大金持ちのお嬢さんで、大人しいが清楚で可憐な、ついつい守ってあげたくなるキャラである。
どちらもそれぞれ違った可愛さがあり、それ故に散々迷わされた。
これは何もぼくだけではなく「ビアンカとフローラ、どちらを選ぶべきなのか」という議題は、ドラクエⅤをやった人全員が侃侃諤諤となりつつも、一向に決着を見ないまま終わるという、非常に難しい問題なのである。
ちなみにぼくは結局、ビアンカを選んだ。
というかあくまで個人的な意見だが、今になって思うにドラクエⅤはなんとなく、ビアンカを選ぶよう仕向けられている気がする。
何せ彼女は幼馴染でよく見知った間柄である。
一方フローラは、大人になってから出会った、知り合って間もない相手だ。
その影響か、結婚前夜に双方の家を訪れると、ビアンカは不安の余り眠れずに窓際で黄昏ているが、フローラはすやすやと熟睡している。
更にいうとフローラにはアンディという幼馴染がいて、彼はフローラが好きなのだ。主人公がビアンカを選ぶと、彼女はその後、アンディと結婚する。
しかしビアンカに特定の相手はおらず、主人公がフローラを選んだ場合、生涯を山奥の田舎で寂しく暮らすことになる。
ついでに言うと彼女の父親は病気で寝たきりになってるのだが、主人公がビアンカを選ばないと死ぬ。
もう完全にビアンカと結婚しないと主人公が極悪人になる流れである。
それでも尚フローラを選ぶ! という人にたまに会うのだが、スーパーマンのごとき鋼の精神を持っているか、心そのものを失っているかのどちらかだと思う。
中には「フローラと結婚しないと天空の盾をもらえない気がした」という人もいた。これは納得のいく話だ。
ドラクエⅤはそれまでのシリーズとは少し趣きが違っていて、主人公=魔王を倒せる勇者、ではない。
主人公は父親の意志を引き継ぎ、来たるべき勇者の出現に備えて、その者だけが装備できる伝説の武具を集めて旅をすることになる。
そのうちの一つが天空の盾であり、所有者はフローラの父であるルドマンだった、というわけだ。
彼はそれを娘の結婚相手に譲ると言うのである。

大人の嫌な読みをすれば天空の盾がなければストーリーが進行しないので、もらえないわけはないのだが、子供の時にそんなことまで分かるわけがない。
よってフローラを選ばざるを得なかった、というわけだ。
これは「己の目的の為に、好意を向けているのとは違う相手と結婚する」という、大人の世界ではたまにある(かもしれないと一応言っておく)ことであるが、その考えを子どもに芽生えさせるとは、色々と奥深いゲームではあった。

ただまあ、ぼくは初プレイ当時、そんなことにまで考えが回らず、ひたすらにどちらも可愛いのでどちらにしようか苦悩していただけだった。
「人生にはどれほど辛くても、どちらかを選ばなければならない時が来る」
それを最初にぼくへと教えてくれたゲームが、ドラゴンクエストⅤだったのだ。

ついでいうと迷いすぎて分からなくなって勢い余ってルドマンを選んでしまった、というのは、良い思い出である。(普通に断られた)

終わり

 

次回:熱血高校ドッジボール部

 

曖昧ゲームコラム5:ロックマン3

ロックマン3 ワイリーの最期⁉︎

発売日時:1990年9月28日
発売元:カプコン
対応機種:ファミリーコンピュータ

 

当たり前の話だがゲームとは自らの手で道を切り開いていくものである。
己の感覚を総動員してコントローラーを操り、謎や敵を少しずつ攻略していく。
どうしても無理な時は人に頼るが、それとてやはり誰かの手によって先に進むことには違いない。
だがどんなものにも抜け道はある。
時に思いもよらぬやり方で未知のものが味方し、活路を見出すことが出来るようになるのだ。
まるで神の気まぐれであるように。

わざわざ大げさな前振りをしたが、中身自体が大したことないので、関係ない場所で盛り上げるだけ盛り上げただけの話である。


ロックマンは戦闘用に改造されたロボットであるロックマンが、Dr.ワイリー率いる悪のロボ軍団と戦う横スクロールアクションゲームだ。
このゲームは他の作品にはない二つの要素がある。
一つはボス選択。
あくまでぼくの経験に限った話ではあるが、それまでのアクションゲームは与えられたステージを突き進み、待ち受けるボスを倒して次に進むという形をとっていた。
しかしロックマンの場合はそこから違う。
まず初めに幾つかのステージを自らで選択し挑むのである。
つまりはどのボスから倒していくかはプレイヤーの判断に委ねられているということだ。
それなら何でもいいから一人ずつ攻略していけばいいじゃないかと思うだろうが、それこそが素人のあさはかさだ。関係ないがあさはかさってちょっと間違えるとアカサカサカスみたいな感じになってややこしいと思う。
ロックマンの特徴二つ目として、ボスを倒すと相手の持っている武器をロックマンが使えるようになる点がある。
ロックマンは最初、ロックバスターという何の効果もない基本的な兵器しか持っていない。
腕の先から丸いポップコーンのようなものを射出し攻撃するのだが、いかんせん攻撃力が低く中々敵を倒すことができない。
ポップコーンが最もその攻撃性を発揮するのは映画館の床へ盛大にばらまかれた時だけであり、ロックマンのステージにTOHOシネマズが存在しない限りはその真の力を発揮することはないだろう。
故にロックマンはボスを倒し、武器を取得し、それを利用して他のボスを攻略していくことが鍵になるのだ。
そして、全てのボスには「弱点」となる武器が存在する。
ロックマンはそれを的確に選び攻撃していくことで、ボス戦において優位に立てるのである。
だが何のボスにどの武器が効くのかは、全く分からない。ステージセレクト時点では全くのノーヒントだからだ。
よって「どの敵から倒して行くか」を見極めるのが非常に難しく、ただ無造作にボスを選んでいてはゲームを進められなくなってしまうのである。
ロックマン3をやっていた当時、ぼくはそのことが分からずにバカ面を晒して、ただただ何となくでステージを指定していた。
しかしそれでは一向にクリアできないのは自明の理である。
ただでさえロックマンは難易度が高い。ボスに通じる武器を知っていても、そこまで辿り着けないことが多々あった。
そこにきてろくな装備もなく、また、作戦を立てる頭もなく突っ込むのだから、当然、手詰まりになる。
ロックマンを作ったライト博士だって、「こいつさっきからおんなじ所でばっかりティウンティウン(ロックマン用語で敵にやられること)してるけど、ロボットのくせに学習能力ないのかな。不具合? 仕様ですって言い切る?」などと悪い大人の顔をし始めることだろう。
だがそんなバグだらけで回収待った無しのソラノロックマンにも救いの手は差し伸べられる。
ロックマン3には「無敵モード」になれる技があったのだ。
俗にいう「裏技」である。
生まれて初めてぼくが裏技という禁断の方法を知ったのがロックマン3だった。
ある日友達がやってきて、どうしてもロックマンをクリア出来ないぼくを見かねて教えてくれたのだ。
それはスネークマンというボスのステージ途中でわざと穴に落ちると、本来ならティウンティウンするはずがその現象は起こらず、HPがゼロになった状態で復活できるというものだった。
本当はもっと詳しいやり方があるのだが、ここでは一応、伏せておく。ロックマン3を今やっている子供が良からぬ道に足を逸れないようにという、腐れ切った大人からのせめてもの配慮だ。
これによりソラノロックマンは大進撃を繰り広げた。当然である。どれだけダメージを受けても減るHPがないのだ。ちょっと頭のいい犬でもクリアできる。
しかし同時にぼくは何だか胸にモヤモヤしたものが残るのを感じていた。
それは罪悪感とも呼べるもので、手を出してはいけない領域にどっぷりと浸かってしまったような感覚であったことを覚えている。
友達は友達で「へへっ、やべーだろ」みたいな違法なものに手を出してはまった奴みたいな顔をしていたが、こうなってはいけないという見本みたいなものだなと思った。
無論、裏技自体に問題性があるわけではない。
昔から普通に存在していたものだ。
しかしゲームというものはやはり苦労してクリアするからこそ価値がある。
ある程度の裏技で攻略しやすくするのは構わない。が、さすがに無敵モードはやりすぎであるような気が、その当時のぼくにはしていたんだろう。
実際その後、しばらくしてぼくは自力でロックマン3をクリアした。なんだかスッキリしていたような記憶がある。
何事も、己にとって是が非かを判断して使うのは重要だなと思った次第。
神の力に溺れた者の末路が散々であることは、古人が口を酸っぱくして伝えていることなのだから。

大げさで始まったので大げさで締めたが、別に普通にやりゃよかったなと今、後悔している。

終わり

次回:ドラゴンクエスト天空の花嫁

曖昧ゲームコラム4:MOTHER 2

MOTHER 2

発売日時:1994年8月27日
発売元:任天堂
対応機種:スーパーファミコン

もしも突然見知らぬ男から銃を突きつけられ、
「お前が今までやってきた中で忘れられないゲームはなんだ! 答えろ! 答えなければ殺す!」
と脅されたとしよう。
ぼくは迷いなくスティーブン・セガール並の蹴りを繰り出し銃を弾き飛ばした後、相手の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけた後でこう返すだろう。
「よく聞け、まずはMOTHER2だ」
と。

あちこちから「だからなんだ」と声が聞こえてきそうだが、つまりはそれくらい好きなゲームだ。
SFCにおいてRPGの名作は数あれど、ぼくの中でMOTHER2ほど特別なソフトはない。
誰でも長いゲーム人生において幾つか「一度クリアしたのにまたやってしまうゲーム」が存在していることだろう。
ぼくにとってMOTHER2はその対象だ。
初めてプレイしてかれこれ10回以上はクリアしている。
なんていうか一定周期で「あ、きたな」と思う時がある。
来たなというのは他でもない「MOTHER2をやりたい周期が来たな」だ。
RPGをやりたいの? へー、これ」
と気軽な調子で別のゲームを貸されたら、ぼくは間違いなくサイコキャラメルを奥歯で噛み締めながら手をかざしPK KIAIΩで相手を粉々にするだろう。
ぼくがやりたいのはRPGではない。MOTHER2なのだ。
既にストーリーは完全に把握しているし、どこに何のアイテムがあるのか、どうすれば敵を倒せるのか、なんという街に誰というキャラがいるのかすら覚えきっている。
もうラスボスからすれば「くそっ、何回繰り返してもあいつにやられてしまう!」と恐ろしいループ状態に陥っていることだろう。そしてその地獄はこれからもきっと続く。
しかしこうなると単純に面白いという言葉だけでは済ませられないような気がする。
ある種の中毒性とも言える要素が、このソフトにはふんだんに盛り込まれているのではないだろうか。
MOTHER2のストーリーは主人公の住む街に隕石が落下したところから始まる。
実はその隕石は宇宙を支配せんとする巨悪「ギーグ」の卵であり、選ばれた子供の一人である主人公はその復活を止めるために旅立つのだ。
まず注目したいのは、世界観である。
初プレイ当時、ぼくにとってRPGと言えば剣と魔法が当たり前だった。
中世ヨーロッパ風の世界を鎧姿の主人公達が冒険していく。
これは最早、時代劇に侍が出てきて悪漢を倒すのと同じくらい覆しようのないものであった。
しかしそこにきてMOTHER2はハナから違っていた。
舞台は現代(もしくは近未来)のアメリカ。
主人公は何処にでもいるような野球帽が似合う男の子。
武器はバット。
防具は無し。
魔法の代わりにPK(超能力)。
何処をどうとってもぼくが知るRPGとは似ても似つかない。まるで独自の路線だった。
おまけに回復アイテムですら、薬草やポーションではなく、ハンバーガーやサンドイッチという現実から地続きのものだ。
受けた衝撃は計り知れなかった。
「こんなことやっていいんだ!」と無意識の内に己の中にあった固定観念が砕け散った瞬間である。
同時にMOTHER2という特殊なゲーム世界にどっぷりとはまってしまった。
しかしここまでリアルに寄せると一つの問題が浮上する。
ドラクエなどでは「敵を倒す」ということをあまり疑問に思ってはいなかったが、よくよく考えればあれは立派な殺害行為だ。
モンスターといえど一個の命である。それを敵対してくるから仕方ないとは言え剣でぶっ刺し、魔法で焼き殺し、ハンマーで叩き潰しているわけである。
魔物にも夢があったかもしれない。家族がいたかもしれない。ずっと片思いをしている相手がいて「オレ、勇者との戦いが終わったら告白するんだ」と川べりで語り合っていたかもしれない……これ以上言うと切なくなってくるのでやめておく。
ただ、ぼくは別にドラクエ(や他のファンタジーRPG)を倫理的な問題で裁こうとしているわけでは全くない。
寧ろこの手のゲームにそういう現実世界的な問題をもってきてしたり顔をすることは、個人的にもっとも嫌う行いだ。
しかしMOTHER2のように現代を舞台にすると、どうしてだか、そういった感覚が浮上してくるのは否めない。
困ったものだが、その辺のことをMOTHER2は見事にクリアしている。
主人公達にはカラスや犬やロボットや果てはギーグによって悪意を増大させられた、同じ人間でさえ襲いかかってくる。
ただ、その全てを退けた時、戦闘画面のウインドウには決して「○○を倒した!」とは出ない。
代わりに「○○は大人しくなった」と出るのだ。
そう、主人公達との戦いを通して敵はやられるのではなく、理性を取り戻すのである。つまりこれは救いなのだ。
なんと素晴らしい配慮だろうか。子供の頃は気づかなかったが今やると、MOTHER2にはそういった細かな気遣いが随所にあるのを知ることが出来る。そこにまた感動するのだ。
次いでストーリー進行のテンポである。
最近のゲームはハードの機能が上がって、実写と見紛うような美麗なムービーが観れるようになった。
そのこと自体はぼくも大歓迎だし、美しいグラフィックに感動して見惚れることも多々ある。
だが同時に、そのせいかプレイするのにやや時間やロードの「待ち」が必要となり、少し気軽にやれなくなってしまったと思うこともたまにある。
ゲームをやる時、やるぞっ! と気合を入れて電源スイッチを押すこともあったりするのだ。
その点、MOTHER2は派手なムービーやイベントシーンがない代わりに気軽に始められるし、ほとんど引っかかるところもなく進んでしまう上、小ネタや会話が面白いので、一度やったらやめどきが分からなくなってしまい、自然に最後までやれてしまう。
それ以外にも、わずかでもプレイに抵抗を覚えてしまうようなある種のストレスとも呼べるものを、徹底的に排除している感さえあった。
これはMOTHER2だけではなく、他の中毒性のあるゲーム全てに言えることではないかと思う。
気軽さが継続に繋がることもあるのだ。
特に年齢を重ねていくごとに、それを実感することが多くなってきた。
他にも色々とあるが全部を書いていると記事が延々に続いて終わりが見えないのでこの辺りでやめておくが、MOTHER2を繰り返して何度もプレイしてしまうのは、単純な面白さ以外に加えられた独自性のスパイスがふんだんにまぶしかけられているからだと思う。
また今でこそMOTHER2といえばゲーム好きの間ではそれこそゴジラでいうキングギドラモスラくらいに有名な作品だが(怪獣に例えんな分かるか、という人はまあ、主役に匹敵するほどの存在感だと思って自由に他のキャラを当てはめて下さい)ぼくが初プレイした時は少なくとも周囲で知っている人はあまりいなかった。
そこがまたゲーム好きのいやらしい部分を刺激したのである。
誰も知らないソフトを自分だけが知っている、という気持ちは、次第に
「君達、メジャーな作品も悪くはないが少しは自分の目と耳を駆使して良作を探り当てたらどうだね、ふふん? ふふふふふん?」
という目の前にいたらジャイアン並みのパンチ力で顔面に拳を繰り出したいようなガキを誕生させたのである。
とは言えMOTHER2は楽しさや面白さとはまた別の強烈な体験をぼくの心に刻み込んだのは確かだ。
今はまたバーチャルコンソールで配信されて気軽にやるれので、「その時」が来ればまたぼくはプレイするんだろう。
全てを知り尽くしてもなお面白い、そんなゲームも世の中には存在する。

終わり

余談:マザー2におけるラスボス「ギーグ」の倒し方は、今までやったRPGの中でも屈指の驚きと感動があると思う。正にこのゲームだからこその演出は本気で一度は見ておくことをお勧めするので、未プレイの方は是非やって見て下さい。

次回:ロックマン3 ワイリーの最期⁉︎