空ノページ

ライトノベルを中心に活動中の作家、空埜一樹のブログです

曖昧ゲームコラム4:MOTHER 2

MOTHER 2

発売日時:1994年8月27日
発売元:任天堂
対応機種:スーパーファミコン

もしも突然見知らぬ男から銃を突きつけられ、
「お前が今までやってきた中で忘れられないゲームはなんだ! 答えろ! 答えなければ殺す!」
と脅されたとしよう。
ぼくは迷いなくスティーブン・セガール並の蹴りを繰り出し銃を弾き飛ばした後、相手の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけた後でこう返すだろう。
「よく聞け、まずはMOTHER2だ」
と。

あちこちから「だからなんだ」と声が聞こえてきそうだが、つまりはそれくらい好きなゲームだ。
SFCにおいてRPGの名作は数あれど、ぼくの中でMOTHER2ほど特別なソフトはない。
誰でも長いゲーム人生において幾つか「一度クリアしたのにまたやってしまうゲーム」が存在していることだろう。
ぼくにとってMOTHER2はその対象だ。
初めてプレイしてかれこれ10回以上はクリアしている。
なんていうか一定周期で「あ、きたな」と思う時がある。
来たなというのは他でもない「MOTHER2をやりたい周期が来たな」だ。
RPGをやりたいの? へー、これ」
と気軽な調子で別のゲームを貸されたら、ぼくは間違いなくサイコキャラメルを奥歯で噛み締めながら手をかざしPK KIAIΩで相手を粉々にするだろう。
ぼくがやりたいのはRPGではない。MOTHER2なのだ。
既にストーリーは完全に把握しているし、どこに何のアイテムがあるのか、どうすれば敵を倒せるのか、なんという街に誰というキャラがいるのかすら覚えきっている。
もうラスボスからすれば「くそっ、何回繰り返してもあいつにやられてしまう!」と恐ろしいループ状態に陥っていることだろう。そしてその地獄はこれからもきっと続く。
しかしこうなると単純に面白いという言葉だけでは済ませられないような気がする。
ある種の中毒性とも言える要素が、このソフトにはふんだんに盛り込まれているのではないだろうか。
MOTHER2のストーリーは主人公の住む街に隕石が落下したところから始まる。
実はその隕石は宇宙を支配せんとする巨悪「ギーグ」の卵であり、選ばれた子供の一人である主人公はその復活を止めるために旅立つのだ。
まず注目したいのは、世界観である。
初プレイ当時、ぼくにとってRPGと言えば剣と魔法が当たり前だった。
中世ヨーロッパ風の世界を鎧姿の主人公達が冒険していく。
これは最早、時代劇に侍が出てきて悪漢を倒すのと同じくらい覆しようのないものであった。
しかしそこにきてMOTHER2はハナから違っていた。
舞台は現代(もしくは近未来)のアメリカ。
主人公は何処にでもいるような野球帽が似合う男の子。
武器はバット。
防具は無し。
魔法の代わりにPK(超能力)。
何処をどうとってもぼくが知るRPGとは似ても似つかない。まるで独自の路線だった。
おまけに回復アイテムですら、薬草やポーションではなく、ハンバーガーやサンドイッチという現実から地続きのものだ。
受けた衝撃は計り知れなかった。
「こんなことやっていいんだ!」と無意識の内に己の中にあった固定観念が砕け散った瞬間である。
同時にMOTHER2という特殊なゲーム世界にどっぷりとはまってしまった。
しかしここまでリアルに寄せると一つの問題が浮上する。
ドラクエなどでは「敵を倒す」ということをあまり疑問に思ってはいなかったが、よくよく考えればあれは立派な殺害行為だ。
モンスターといえど一個の命である。それを敵対してくるから仕方ないとは言え剣でぶっ刺し、魔法で焼き殺し、ハンマーで叩き潰しているわけである。
魔物にも夢があったかもしれない。家族がいたかもしれない。ずっと片思いをしている相手がいて「オレ、勇者との戦いが終わったら告白するんだ」と川べりで語り合っていたかもしれない……これ以上言うと切なくなってくるのでやめておく。
ただ、ぼくは別にドラクエ(や他のファンタジーRPG)を倫理的な問題で裁こうとしているわけでは全くない。
寧ろこの手のゲームにそういう現実世界的な問題をもってきてしたり顔をすることは、個人的にもっとも嫌う行いだ。
しかしMOTHER2のように現代を舞台にすると、どうしてだか、そういった感覚が浮上してくるのは否めない。
困ったものだが、その辺のことをMOTHER2は見事にクリアしている。
主人公達にはカラスや犬やロボットや果てはギーグによって悪意を増大させられた、同じ人間でさえ襲いかかってくる。
ただ、その全てを退けた時、戦闘画面のウインドウには決して「○○を倒した!」とは出ない。
代わりに「○○は大人しくなった」と出るのだ。
そう、主人公達との戦いを通して敵はやられるのではなく、理性を取り戻すのである。つまりこれは救いなのだ。
なんと素晴らしい配慮だろうか。子供の頃は気づかなかったが今やると、MOTHER2にはそういった細かな気遣いが随所にあるのを知ることが出来る。そこにまた感動するのだ。
次いでストーリー進行のテンポである。
最近のゲームはハードの機能が上がって、実写と見紛うような美麗なムービーが観れるようになった。
そのこと自体はぼくも大歓迎だし、美しいグラフィックに感動して見惚れることも多々ある。
だが同時に、そのせいかプレイするのにやや時間やロードの「待ち」が必要となり、少し気軽にやれなくなってしまったと思うこともたまにある。
ゲームをやる時、やるぞっ! と気合を入れて電源スイッチを押すこともあったりするのだ。
その点、MOTHER2は派手なムービーやイベントシーンがない代わりに気軽に始められるし、ほとんど引っかかるところもなく進んでしまう上、小ネタや会話が面白いので、一度やったらやめどきが分からなくなってしまい、自然に最後までやれてしまう。
それ以外にも、わずかでもプレイに抵抗を覚えてしまうようなある種のストレスとも呼べるものを、徹底的に排除している感さえあった。
これはMOTHER2だけではなく、他の中毒性のあるゲーム全てに言えることではないかと思う。
気軽さが継続に繋がることもあるのだ。
特に年齢を重ねていくごとに、それを実感することが多くなってきた。
他にも色々とあるが全部を書いていると記事が延々に続いて終わりが見えないのでこの辺りでやめておくが、MOTHER2を繰り返して何度もプレイしてしまうのは、単純な面白さ以外に加えられた独自性のスパイスがふんだんにまぶしかけられているからだと思う。
また今でこそMOTHER2といえばゲーム好きの間ではそれこそゴジラでいうキングギドラモスラくらいに有名な作品だが(怪獣に例えんな分かるか、という人はまあ、主役に匹敵するほどの存在感だと思って自由に他のキャラを当てはめて下さい)ぼくが初プレイした時は少なくとも周囲で知っている人はあまりいなかった。
そこがまたゲーム好きのいやらしい部分を刺激したのである。
誰も知らないソフトを自分だけが知っている、という気持ちは、次第に
「君達、メジャーな作品も悪くはないが少しは自分の目と耳を駆使して良作を探り当てたらどうだね、ふふん? ふふふふふん?」
という目の前にいたらジャイアン並みのパンチ力で顔面に拳を繰り出したいようなガキを誕生させたのである。
とは言えMOTHER2は楽しさや面白さとはまた別の強烈な体験をぼくの心に刻み込んだのは確かだ。
今はまたバーチャルコンソールで配信されて気軽にやるれので、「その時」が来ればまたぼくはプレイするんだろう。
全てを知り尽くしてもなお面白い、そんなゲームも世の中には存在する。

終わり

余談:マザー2におけるラスボス「ギーグ」の倒し方は、今までやったRPGの中でも屈指の驚きと感動があると思う。正にこのゲームだからこその演出は本気で一度は見ておくことをお勧めするので、未プレイの方は是非やって見て下さい。

次回:ロックマン3 ワイリーの最期⁉︎

 

曖昧ゲームコラム3:スーパーチャイニーズ3

スーパーチャイニーズ3

発売日時:1991年3月1日
発売元:カルチャーブレーン
対応機種:ファミリーコンピュータ

 

ゲームと言えば多くの場合、テレビ画面に向かって孤独にコントローラーを握っている姿が思い浮かぶかもしれない。
だが、何もソロが唯一のプレイスタイルというわけでは無い。
ゲームにはコミュニケーションツールとしての側面があり、現在ではインターネットの発達によって、家に居ながらにして全国のプレイヤーと楽しめるようになった。
ぼく自身、子供の頃には近所の友達と熱狂しながら対戦ゲームなどをしたものだ。
しかしその中でも、相当に貴重だったのではと思う経験がある。
それは、「親と一緒にゲームをしたこと」だ。

今ではもうぼくと同世代の人達が小さな子供を持つことも多くなっているので、親子でゲームをプレイするという姿も自然なものになっているのかもしれない。
しかし二十年以上も前ともなると、当然だが親が幼い頃にテレビゲームを楽しんだことなどない。
それどころか「ゲームをし過ぎるとバカになる」とか「BGMが頭に残り続けておかしくなる」など偏見に満ちた意見を真剣に捉えて、ゲームを悪として認識している人もいた。
ただうちの親はそこまでゲームを忌避していたわけでも嫌悪していたわけでもなく、幾らか興味を持ちつつもいざ触れるには一歩が踏み込めないとか、そういった微妙な心持ちでいたようだった。
思春期に入るか入らないかぐらいの男子が、エロ本の自動販売機の前を通り過ぎる時に友達と話しながら、横目でちらりと様子を伺う時の気持ちにちょっと似てるかもしれない。似てるわけあるか。
書いてて思ったがこのネット全盛期にエロ本の自動販売機ってまだあるんだろうか。
暗くて人目を避けるように設置された場所でほんのりと光る自動販売機の明かりは、何故だが妙にエロチックに思えて、それを平気で購入していく年上がひどく格好良く見えたものだ。
しかしあれはなんでエロ本が落ちる時に異常なまでのでかい音を鳴らすんだろうか。それとも後ろめたさが幻聴を生み出し本来以上の音に聞こえていたのか。謎だ。
とは言え今はエロ本自動販売機のあるあるエピソードトークをしている場合ではない。このブログはすぐに横道に逸れるので申し訳ない。
親とファミコンの話に戻す。
ぼくがファミコンをやり始めてからしばらく遠巻きに見ていた親だったが、次第に興味を持ち始めてきたのかそばで眺めるようになった。未知のものを見せられている類人猿を思わせる行動である。
父親はそれ以上何もしなかったが、母親の方はやがてぼくと一緒にゲームをプレイするようにすらなった。
そこで登場するのが「スーパーチャイニーズ3」だ。
なぜいきなり3なのかと言われれば答えようがないのだが、当時は割と2や3からプレイすることが多かった気がする。
ストーリー的に前後の繋がりがなく独立していたし、新しく発売されたソフトをやりたい気持ちの方が強かったからだろう。
くにお君だって時代劇編からだったし、がんばれゴエモンSFCからだ。でも別に困らなかった。
ともあれぼくは母親とスーパーチャイニーズ3を始めた。
スーパーチャイニーズ3は二人協力プレイが可能なので、親子揃って冒険がやれたわけである。
で、肝心のスーパーチャイニーズシリーズであった理由や経緯はまるで覚えていないのだが、まあ、たまたまなんかの機会で買ったのだろう。
薄っすらと記憶しているがぼくは母親がすぐ飽きると思っていた。元々その手のオモチャというか次世代ツール的なものには食指が動かない人だったからというのが大きい。
しかし予想に反して、母親はスーパーチャイニーズ3にどハマりした。ぼくが夏休みの間、延々一緒にソフトを攻略していたほどだ。
そのハマりっぷりがどれくらいかと言うと、当時は夜の10時を過ぎると「遅いから寝ろ」と命じる母親が12時を過ぎてもまだ共にやっていて「ここクリアしないと寝れないよね」と平気な顔をしてふいたほどである。
当時はそんな言葉なかったが、いわゆる「廃人」一歩手前の状態だったのかもしれない。
優れたゲームは時に人を狂わせるのだと、幼心にエンターテイメントが持つ魔性の一端を見た気がした。
だが実を言うと、ぼくはスーパーチャイニーズ3がどんなシナリオだったかほとんど記憶にない。
移動とボス戦がRPG風で雑魚敵やダンジョンが横スクロールアクションという変わった形式だったと思うが、思い出せるのはそれだけだ。
ただただ、普段の親とは違う姿に圧倒されててしまい、そこだけが強烈なまでに脳裏に焼き付いている。
唯一、それ以外にあるとすればプレイヤーキャラとは別に王子と呼ばれるサブキャラがいた気がするのだが、こいつがかなり役立たずというか寧ろ邪魔でしかない野郎だった。
外見はコロコロという雑誌で昔に連載してきた「おぼっちゃまくん」という漫画の主人公、御坊茶魔に似ている。本当によく似ている。疑うなら検索してみて欲しい。オマージュした? リスペクト? 的な? と言いたくなるほどだ。
その御坊茶魔を彷彿とさせる王子が本当にムカつくレベルで要らないことしかせず、戦闘中も敵にハナクソつけたりダメージ与えてないのにドヤ顔してきたりする。頼むから何も出来ないなら大人しくしろ。
たまに大ダメージを与えたり、回復してくれたりするが本当に極々稀でしかなかった。
こういうキャラが身内にいるというのはゲームでもたまにあるのだが、さすがに最後までついてきたのはこの王子ぐらいしかいなかった気がする。
しかも途中で改心するとかそういうこともなく、最初から最後まで王子は王子だった。それはそれで信念を貫いて格好いいなと途中一瞬思うがやっぱりむかつく。成長してくれ。
そんな王子に苛立ちながらもぼくは母親と共に夏休みを使って、スーパーチャイニーズ3を無事にクリアした。
その後も母親は「マリオカート」や「ヨッシーのたまご」などにはまっていったが、最後まで一緒にプレイして盛り上がったのはこのソフトだけだ。
少年時代の色褪せぬ思い出である。

余談1:スーパーチャイニーズ3には「ごくらくパンチ」というべらぼうに強い必殺技があるのだが、これは味方にも使えるのでうっかり攻撃すると間違いなく喧嘩になる。ぼくはなった。友達と。2回ぐらい。
ゲームで取っ組み合いって世界でも上位に入るくらいで終わった後の気まずさが半端ないので、出来ればやらない方が吉である。

余談2:父親の方は「スーパーマリオブラザーズ」をプレイしたが最初に出てくるクリボーで死んでから二度とゲームをやらなかった。
その時は爆笑したが、つい最近、バーチャルコンソールスーパーマリオブラザーズをプレイしたら、普通にぼくも最初のクリボーで死んだ。割と本気でへこむ。
歳をとるってこういうことだ。お父さん、ごめん。

終わり

次回:MOTHER 2

曖昧ゲームコラム2:スーパーマリオブラザーズ

スーパーマリオブラザーズ

発売日時:1985年9月13日
発売元:任天堂
対応機種:ファミリーコンピュータ

 

言わずと知れた超有名アクションゲームのシリーズ第一弾だ。
正確に言うとゲームボーイ版のマリオの方が早かった気もするが、取り敢えず据え置き機では初ということにしておいて欲しい。下さい。頼む。
テレビゲームをやっていない人でも、主人公でヒゲなマリオのことぐらいは聞いたことがあるだろう。それくらいに知名度は高い。
タイタニックを観たことがなくてもレオナルド・ディカプリオは知っているのと同じようなものだ。
ちなみにぼくはレオナルド・ディカプリオブラッド・ピットの区別がつかない。
元からハリウッド俳優の名前と顔がどうしても覚えられないのだが、頭の中で「なんか金髪でイケメンの人」というカテゴリで一緒くたになっているらしい。ファンの人がいたら申し訳ない。
「あの『ジョー・ブラックをよろしく』って映画がすごく好きでさ」
と得意げに言っても、
「ほら、レオナルド・ディカプリオが主演の」
と続けてしまい、「ブラッド・ピットだよ」という呆れた答えが返ってくる。その時の相手の目は北極の風が如き極寒に満ちていて、完全にこちらの言葉を信用していないのが容易に伺える。でも好きなのは本当なんだ。そこに嘘はないんだ。
まあ、ブラピのことはいい。今回はスーパーマリオブラザーズだ。
マリオは知らない人がいるかもしれないが本来の職業は配管工だ。故に彼はツナギを着ている。
その配管工が亀の化け物であるクッパにさらわれたキノコ王国の姫、ピーチを助けに行くのがスーパーマリオブラザーズのメインストーリーである。
今書いていて思ったが、割と奇想天外なお話だ。
たった三行の中に「なんでだよ」と突っ込みたくる部分が幾つもある。
そもそもなぜ屈強な戦士や経験豊富な傭兵ではなく配管工のおじさんなのかとか。
配管工とがお姫様とか割と現実に沿った内容なのにいきなりでかい亀の化け物という存在が当たり前のように出てくるのはどうなんだとか。
いやキノコ王国なら姫もキノコじゃないのかとか。
でもそんなことは構わない。日本には便利な言葉がある。
イッツア「無粋」だ。
そう、そんな指摘は本当につまらない。
配管工のおじさんが亀の化け物にさらわれた姫を助けに行く。
それが前提だ。いちいち難癖をつける必要はないし、つけるのは非常にナンセンスだ。
アンパンマンが飛べるのはヒーローだからだ。他に理由はない。
それと同じなんである。
閑話休題
スーパーマリオブラザーズをプレイしたのはファミコンを買ってもらって少ししてからなので、多分、7歳か8歳の頃だ。
猿のようにはまっていたことを覚えている。
ひげのおじさんを操ってステージをクリアしたところで何も得ることはないし、明確なシナリオがあるわけではない。
ただただ、一面ごとに難易度が上がって行くだけの話だ。
しかしそれがなんともたまらなかった。
思うにアクションゲームは己との戦いなのである。
何も手に入れない、諦めることはいつでも出来る。
しかしだからこそ少しでも先に進もうとする。
苦労して努力して何度もくじけそうになりながら頑張って、ようやく達成する。
その時に沸き起こるカタルシスには、物質として得るものが到底及ばないほどの気持ち良さが存在する。
だから人はアクションゲームをプレイするのだ。
……と偉そうに書いたが当時のぼくがそこまで考えていたわけじゃない。
ただ単に他にすることがなかったし飽きるという概念が理解できないアホの小学生男子だっただけだ。
だがそのアホで学習能力の無い小学生男子にも、ある日、壁が立ちはだかる。
はっきりと記憶しているわけじゃないが、ある面から進めなくなったのだ。
どうしてもクリアできない。何をやってもクッパが倒せない。
当時のクッパは今と違って多彩な攻撃を仕掛けてくるわけじゃ無かった。
橋の上でたまにジャンプして火を吐くだけだ。
しかも律儀にこちらが行くまで砦の奥でずっと待っている。
そこには決闘相手を待つ武士のようなストイックさがあった。
今では待機場所から火を吐いて、こちらがスタート地点にいる時から攻撃してくるのだから、彼も変わったものだ。
ひょっとすれば私生活が上手くいっていないのかもしれない。
子供が結婚し孫ができたものの嫁との確執があり中々実家に帰ってきてくれず、たまにプレゼントを贈っても「センスが悪いからおじいちゃんの買ってくれるものはいらない」と冷たくあしらわれているのかもしれない。
彼は待ち続ける人生に飽きたのだ。
せめて宿敵とぐらい、マリオに対してぐらいは積極的にいこうじゃないか。
そう決意したんだろう。
滅茶苦茶迷惑な話だけど。
ともあれまだ自分の未来に自信があった時の彼は単純な動きしかしなかったが、それだけにアクションが読み辛かった。
基本的にスーパーマリオブラザーズクッパの攻撃をかいくぐり、橋の端(洒落じゃない)にあるスイッチを押すことで、足場を崩し、彼を下のマグマに落とすことでステージクリアとなる。
しかしそのクッパをかいくぐると言うのがなんていうか、タイミングが非常に難しい。
いつ走ればいいのか掴みにくいのだ。
そのせいがあって(他に理由もあったと思うが)ある面から先に進めなくなった。
どうしよう。このままでは全面クリアの夢が果たせなくなってしまう。
困っていたぼくだったが、そこに救世主が現れた。
年の離れた親戚の兄ちゃんが何かの理由でうちに来た時、ぼくがマリオをやっているのを見て言ったのだ。
「なんや、そこからワープできるで」
ワープ????
その時のぼくは全く未知の言語を聞いた気分になった。
ワープと言えば大長編ドラえもんの宇宙開拓史でそういうものがあったことは知っていた。
しかしそれがどうマリオに繋がってくるというのだろう。
訳が分からなくなっているぼくを尻目に兄ちゃんはコントローラーを手にマリオを操り、いきなりステー上部にある天井の更に上へ行った。
驚天動地とはこのことである。
常識が覆された瞬間であった。
ぼくからすればアニメのキャラがこちらに対して「お前まじで味噌汁拭いた後で一ヶ月ほったらかしにした雑巾みたいな顔してるな」
と突然に言ってきたようなものだ。そ、そこまでじゃねぇし!
呆気にとられるぼくの前でマリオはどんどんと天井を進み、ある地点で下に降りた。
そこに土管が三つほど並び、上の方に数字が書かれている。
何これと思っていると兄ちゃんはそのうちの一つの中へと入った。
ギュンギュンギュンというお馴染みの音ともに再び現れたマリオは、なんと、三つほどステージを飛ばしていたのだ。
一体何が起こったのかと口を開けているぼくに対して兄ちゃんはにやりと笑った。
「これがワープや」
ひ、ひ、ひ、ひえええええ!
なんてテクニックやあああああ!
これに比べたら空埜はんのプレイはカスや!
腰をぬかさんばかりに驚いたぼくは、その後、兄ちゃんのおかげで8ー1までいけた。
いやまあ、結局、ラストステージのクリアは出来なかったのだが。
それでも「ステージを何もせずに攻略したことに出来る」と知ったのは衝撃だった。
ちょっと大人のズルさというか、世の中の上手い仕組みを知った気分になって、嬉しくなったものだ。

ただ、しばらくして友達に「あのさぉ、へへっーーワープって知っとる?」とドヤ顔で言ったら、全員が「うん。何回もやってる」と答えたことにより、ぼくはその場でうずくまるレベルで恥ずかしくなるのだが。

 

終わり

次回:スーパーチャイニーズ3

曖昧ゲームコラム1:わんぱくダック夢冒険

わんぱくダック夢冒険

発売日時:1990年1月26日
発売元:カプコン
対応機種:ファミリーコンピュータ

ここは宣伝主体のブログである。

が、一応文章で飯を食ってる人間として、あまりにもそれのみというのはどうだろう……なんてことを考えて、何かを書こうと思い立った。
とは言え「では何を題材にするか?」というとこれまた難しい。
ぼくはあらゆる創作物が好きだ。
映画や漫画はもちろんだけど、中でも幼い頃からテレビゲームと呼ばれるものが大好きだった。
よって、自分にとって一番身近であるゲームについて語っていこうと思う。
ただレビューという形ではっきりと特定の作品を批評をしてしまうのは、自分もそういう商売をしている為にいささか抵抗があった。
そこで、己自身の思い出やその当時の想いを絡めて書いてみることにする。
つまりこれはレビューではない。単なるぼくの今までにおける人生の中で、それがどんな位置にあったかということだけのものだ。
どちらかと言うと、エッセイやコラムに近い。
このブログを見て下さっている貴重な方々にも、そのつもりで読んで頂けるとありがたい。
また、一応は週に一回くらいの頻度で更新したいけど、仕事が詰まっているだとか、新作ゲームが面白いだとか、単純に面倒だという理由で二週に一回だったり、月に一度くらいになったりするかもしれない。
そこはゆるゆるとした感じであることを、あらかじめご了承願えれば幸い。
前置きが長くなった。
そろそろ始めようと思う。

記念すべき第一回のテーマだが、やはりこのゲームソフトにするべきだろう。
「わんぱくダック夢冒険」
タイトルを聞いて恐らくは多くの人が「????」と頭の中を疑問符で埋め尽くしていることだと思う。
もしも「あー! 知ってる知ってる!!」と頷く人がいればそれはかなりのレア種だ。ドラクエで言えばはぐれメタルキングだろう。異論は認める。
どうでもいいけどはぐれてるスライムなのにキングってそいつ無茶苦茶かわいそうな人なんじゃないかと思ったが、そんなことは関係ない。今はわんぱくなダックが夢冒険をする話だ。
しかし、わんぱくなダックが夢冒険するって、タイトルだけ読むと「それはまさか違法ドラッ……」まできて「それ以上いけない」となってしまいそうだけど、別にそんな危険なゲームじゃない。
星の数ほどあるテレビゲームの中でも、既存のキャラクターを使った作品がいくつかある。
俗に「キャラゲー」と呼ばれるものだ。
これもその一つで、世界的に知られるあのディズニーに出てくるドナルドダック…………の甥であるヒューイデューイルーイ…………と一緒に暮らしているドナルドの叔父であるスクルージおじさんを主人公にしたアクションゲームだ。
もはや「パリのエッフェル塔に似せて作られた大阪の通天閣に似せて作られた近所の建物」というぐらいの「どんだけ遠いんだ」感があるが、スクルージおじさんはスクルージおじさんで結構有名で、彼を主人公にした長編アニメも何本かある。
とは言え「なぜドナルドではなく遠い親戚をわざわざアクションゲームの主人公にしたんだ?」と訊かれれば「知らないよ。じゃあ逆に訊くけどお前は世界の全てを知ってんのかよ?!」と逆ギレをするぐらいの気構えでいるぐらいに、ぼくも詳しくは知らない。
言い忘れていたがこの記事は全てそういう曖昧な感じで進行していく。
必要ならある程度は調べるが知らないものは知らないし、内容に誤りがあっても大きな問題がない限りは訂正しない。全部が全部、うろ覚えで構成されているということを踏まえて頂けるとありがたい。
さて、話を戻す。
この「わんぱくダック夢冒険」は何を隠そう、ぼくが生まれて初めてプレイしたゲームである。
小学一年生の頃だったか。
小学校に入学してばかりでろくに友達もいなかったウルトラさびしんぼハイパーぼっちだったぼくを心配した今は亡き祖母が、何かのきっかけになればとファミコンを買ってくれたのだ。
はっきりと覚えているが祖母はぼくにある日こう言った。
「ピコピコ買ってやろうか?」
ピコピコ。良い響きだ。昔の人はどんなハードであっても全てのゲームはピコピコだった。だってピコピコするもの。
正確に言えばファミコンの音はギュイガシャーンゴゴゴピュンピュンティラリラララみたいな感じだと思うが、いきなり祖母がそんなことを言ったら内部コンピュータが誤作動を起こしたのかと不安になるので、ピコピコでいいんである。
喜んだぼくはすぐに玩具屋に行ってファミコン、正式名称ファミリーコンピュータを買ってもらった。
そして同時に購入してと頼んだのが件の「わんぱくダック夢冒険」だったのだ。
最初に言っておくがぼくはアニメを観ていたのでスクルージおじさんの存在は知っていたが、特別に好きだったというわけでもない。とは言え嫌いというわけでもない。
食べ物でいうなら「かぼちゃの煮物」くらいの位置だった。
なのになんでステーキやら寿司やらケーキやらが並んでいるショップの中で、あえてかぼちゃの煮物的なキャラが主人公のゲームを選んでしまったのかと言えば、これが全く記憶にない。
当時(今もかもしれないが)の子どもにとって「ゲームハードと一緒に買う最初のソフト」は相当に大切なものだった。
何故ならしばらくそれ以外のソフトは買ってもらえないからだ。どんなものでも、例えクソゲ……感性に合わないソフトであっても、強制的にプレイし続けなくてはならなかった。故に慎重にならざるを得なかったのである。
なのにわんぱくダック夢冒険だ。
タイムマシンがあるならその時に戻って「なんで?」と自分に問い質したい。ついでに「お前、初めて出来た友達の家へ遊びに行った帰りにおしっこ漏らすレベルで迷子になって最終的に『この街で暮らそう』と決心することになるから、気をつけろ」と言いたい。
ともあれ理由は不明だがぼくはファミコンとソフトを買ってもらってワクワク気分で家に帰った。
が、結論から言うとわんぱくダックの夢冒険はクリアしていない。
理由は一つだ。
超絶難しかったからである。
詳細に記憶しているわけではないが、体としてはオーソドックスな横スクロール型アクションゲームだったと思う。
スクルージおじさんはお金持ちだが冒険野郎でもあるので、財宝を求めて世界中の遺跡に潜り込んだりする。
このゲームもそんなノリで進んで行ったはずだ。
ただ、プレイキャラであるスクルージおじさんのジャンプ方法が、ホッピングなのである。
ホッピング、若い人は知っているだろうか。昔、大ブームになった玩具だ。
表現するのがやや難しいが、十字架の横棒がかなり上の方についていて、下の方に左右の足を乗せる場所があるような感じになっている。
つまりは、取っ手に掴まって人が乗れるようになっているのだ。
で、ここからが重要なのだが、乗った人を支えるべき最下層部分がバネ式になっているのである。
早い話が、足を乗せてピョンピョン飛ぶように作られている棒、というわけだ。まだよく分からないという人はググって下さい。
あんまりやると胃下垂になると噂になった。本当かどうかは知らない。
スクルージおじさんはそのホッピングで跳躍して敵を潰す。
正確にはホッピングそのものでは無く杖だった気もするが、全体重を乗せても折れない上に異常なまでの伸縮性と跳躍力をもつ杖というのも、どんな素材なのかはなはだ気になるところだ。ほとんど兵器だろ。
おまけにその杖で頭からやられた日には、敵もモザイクレベルで損壊して悲惨な状況になっているはずで、当時は普通プレイしていたが、今思うと正気の沙汰じゃない。気にしたらあかんやつ。
で、そのホッピングジャンプというのが割と間とか距離感を掴むのが難しくて、普通のアクションゲームですらちょっと苦手なぼくは、上手く扱うことが出来なかった。
結局、ラスボスどころか全ステージの半分ぐらいしか行けないままでプレイは頓挫し、別のソフトに移っていった覚えがある。

ただこうして二十数年経っても覚えていると言うことは、強烈な印象を与えてくれたことは間違いないだろう。
わんぱくダック夢冒険、アメリカではリメイクされて現行機でプレイ出来るようになっているとのことで、ぜひとも日本語版でも出して欲しい。
あるいはバーチャルコンソールでの復刻を願う。
その時こそ、ピョンピョン跳んでるおじさんを見事に操り、雪辱を果たしたいものだ。

終わり

次回:スーパーマリオブラザーズ